態度教育と知性の関係
2023年2月10日 Vol.960
つばめ学院は埼玉県和光市にある「生徒を元気にする塾」です。
塾長の関口です。
態度教育の衰退
保護者面談の時期です。
日々、いろいろな保護者の皆様からお話を伺っています。
そこでここ1〜2年ほど私が気になっていることがあります。
それは、小学校や中学校(特に小学校)で統制のきかないクラスの話を聞くことが多くなったということです。
学校に落ち着いて勉強する場がないので、学習塾にその場を求めてきているというお話を伺うことが増えたように感じています。
そしてもう一つ気になっていることがあります。
こちらは中学生以上に多いのですが、驚くほど「姿勢(態度)が悪い」子がいるということなんです。
誤解があるといけないのですが、その子達に悪気はありません。講師である私に対して何かの抗議を表明しているわけではなく、単純に「ぐだっ」としているだけなんです。
でもその姿を見ると、「それって人の話を聞く姿勢じゃないよね」とか「そんな姿勢で勉強してたら集中が続くわけないよね」と言いたくなってしまいます。言ってるんですけど。
「学校で何も言われないの?」と聞くのですが、あまり言われないそうです。言われないからこそ、そういう姿勢が定着しちゃうんですよね、きっと。
私はこの「クラスの統制が効かない」という問題と「態度教育がない」という問題には強い相関関係があると思っています。
元気に挨拶しよう。はっきり返事をしよう。脱いだ靴は靴箱にしまおう。人の話を聞く時は相手の方を見よう。字は丁寧に書こう。正しい姿勢で座ろう。etc…
こういう事が妙に気になるようになったのですが、当初は「俺も年をとったせいかな」なんて思っていましたが、実は事態はより深刻なのかもしれません。
昭和の態度教育について
この問題意識に基づいて「いまの学校教育は機能していない!」とか文句を言うつもりはありません。
学校の先生方だって非常に複雑でデリケートな「今どき」の問題に直面して日々悩まれていると思うんです。
私が受けてきた昭和の態度教育といっても単に「できてないと先生にぶん殴られる」という側面が大きかったように思います。(完全に私の主観と記憶です)
少なくとも私の場合でいえば、別にあれこれ「やれ」と言われることに納得していたわけでもないし、大切だとも思っていませんでした。
ただむやみに痛い思いや怖い思いはしたくないので、とりあえず人前では挨拶も返事もして、文句をつけられるような姿勢にならないように多少の配慮はしていた気がします。
昭和のような「生徒をぶん殴る先生」が良いとも言いません。ただ、「そういう先生」が私にとっての態度教育にかなり大きな影響を与えていたことだけは事実です。
態度教育の難しさ
態度教育って本当に難しいと思っています。
先生が「ムカついて怒っている」のか「自分のことを思って怒ってくれているのか」は、生徒の側からするとその場では判断がつきにくい場合もあるからです。
その子のために叱ったとしても、生徒にしてみれば「ただ怒られた」という感想にしかならない事もあるし、その感想が訂正されるのは10年後なんてことはザラにあることです。
ちょっとだけ勇気を出して言います。
この見方は、実は「生徒」だけではなく「保護者」の間にも広がっているように感じています。
そういう状況において、公立の小中学校で先生方が厳しさの伴う態度教育に踏み込めないのは容易に想像がつきます。
さて、「現状」を整理したうえで、「この先」について私の予想を書きます。
公教育の現場で「態度教育」がなくなっていくとどうなるのでしょうか。
1つの可能性として「態度教育のような難しいものは、お金を払って塾にお願いする」ということが起こりうるのではないでしょうか。
私はこの事を全く良いことだとは思いません。(ビジネスチャンス!とかも思いません)
態度教育が一部の特権階級の占有物になってしまえば、社会は間違いなく二極化の方向にすすみます。
いくら塾で生徒に勉強や態度を教えてその子の成長を手伝ったところで、その子が飛び出す社会そのものが「油断ならない社会」になってしまうのではなんの意味もないですよね。
態度教育が知性を育てる
さらに態度教育には「知性」を育てる可能性が十分にあります。
つまり、
挨拶ができて、はっきり返事ができて、脱いだ靴はそろえる癖がついていて、人の話は相手の方をみて最後まで聞いて、、、、ect ができる子は「知的になる」ということです。
その理由についても少し書きます。
まず「知性」ですが、これは「知識」の総量を指すものではないと私は考えます。
「知性」とは「知」に対する態度であって、なにがしかの知識・技能を有しているか否かではないはずです。
じゃあ「知性」ってなんなんだってことですが。
「自分にとって理解できないなにかがそこあるのではないか」という態度こそが知性だと思います。
それゆえ「知識の量は乏しいが、極めて知性的」という人は存在しえるし、「知識の量は圧倒的だけれど、全く知性を感じない」という人もまた存在しえるのです。
ここに態度教育と知性の共通点があります。「自分には分からない何か」の存在です。
学問や教育によって得る価値は、コンビニで買い物をして得るものの価値とは本質的な違いがあります。
コンビニでの買い物というのは、買おうとする対象の価値を事前に購入者が理解しています。
今から買おうとする「おにぎり」が200円だったとして、その200円が高いのか安いのかは「消費者」が判断します。他のおにぎりより高いから「高い」のか、他のおにぎりにはないこだわりの食材をふんだんに使っているから「安い」のか。いずれにせよ、それは購入する前に消費者が判断できるはずです。
しかし、です。
学問や教育の価値は違います。
いまから得ようとする学問の価値は、当の学問を修めなければ理解できない。そういう構造になっているのです。だからこそ、学問を知るものはその価値を「事後的に」理解しており、学問を知らぬものは「それっていらなくね?」と思うのです。
「字は丁寧に書くんだよ」と言われて、「え?なんでですか?読めれば良いじゃないですか。先生が読めなくたって、僕は読めますから。」と答える子は、知的ではありません。
なぜなら、自分が知覚できる全てのものを自分の偏狭な度量衡で計測可能であると信じて疑わないからです。
その態度を突き破ることが教育の最も重要な価値だと私は思うのです。その意味で、何が土台かと言えば「態度」なのではないでしょうか。
◯最後に
長いブログになりました。
ここまで読んでくださった方の中には、「じゃあ私(親)はどうすれば良いの?」と疑問に感じる方もおられると思います。
その回答が「態度教育」だと思います。知識・技能は後からいくらでもなんとかできます。しかし態度教育は違います。それは、その子が生きていくうえでの「当たり前」を規定する教育だからです。もし学校にその機能が果たせないのであれば、ご家庭でやるしかないはずです。
もちろん、塾も頑張ります。
「どうやってやるか」は簡単です。示せば良いだけです。説明も解説も不要です。親が示すことができれば十分です。
「示す」というのは「できることを示す」のではありません。できていなくても、「できようとする姿勢を示す」ことで十分に態度教育は機能するはずです。その姿勢こそがお子さんを幸せに導くと私は強く信じています。
最後まで読んで頂いてありがとうございます。